ジェフ千葉イビチャ・オシム監督が次期日本代表監督として期待されている話題がよく見られるけど、オシムが来てからジェフが強くなったとか、それまで下位をさまようチームだったとかいう紹介を目にする。
国内サッカーに詳しくない人はほとんど知らないから誤解を招いているのだろうけど、オシムが就任してから強くなったというのは大きな誤解。
イビチャ・オシム監督が就任したのは2003年からで、下位争いから脱出したのは2001年から。当時の監督はズデンコ・ベルデニック監督で、翌年にカネのチカラで名古屋グランパスエイトに引っこ抜かれた。


自分はよく覚えているぞ。2001年4月、秋田でジェフ市原横浜F・マリノスの対戦で、昨年まで残留争いの常連と優勝争いの常連の立場が入れ替わった試合を。
あれは阿部勇樹フリーキックが偶然風に乗って、GK川口能活の頭上を越して入る先制点だった。だが、そこから勢いを得たジェフ市原と、まだ前半なのに敗色濃厚な雰囲気が漂った横浜F・マリノス


正直、ジェフ市原が強くなるとは思わなかった。1996年末を持って大手スポンサーが撤退し、選手数は3分の2に激減。主力でアトランタ五輪代表だった城彰二秋葉忠宏を放出し、成績は下がる一方。
交通の便が悪い市原臨海競技場は有料入場者数のワースト記録を更新、人手の足りない状況にユース選手を起用。当時高校3年生の酒井友之を、本来FWですらないのにFWとして起用する有様。高校1年生の阿部勇樹も駆り出されていたりする。
さらに、その状況をあざ笑うかのように、同じ千葉県の柏レイソルは上位争い。横浜フリューゲルスが解散してジェフ市原が残るのは、不思議にさえ思った。


ただ、そんなジェフユナイテッド市原に一つだけ希望があった。
Jユースカップで好成績を出し続けた、ジェフ市原ユース。後に、上述の酒井友之阿部勇樹、さらに佐藤勇人佐藤寿人ツインズ、村井慎二などを輩出している。
2001年から好成績を残すようになったのは監督というよりも、実はユースからの台頭だったと思う。特に1997〜1999年あたりのジェフ市原ユースは強かったし、だからこそトップチームに出ることもできたのだと思う。


人間万事塞翁が馬とはよく言ったもの。思えば、この言葉をよく使う岡田武史監督も、かつてはジェフ市原のコーチだったしね。
だから、今弱いクラブチームもどうなるか分からないし、強いところだっていつ低迷期が来るか分からない。ヴァンフォーレ甲府ヴェルディ川崎がいい例になるかもね。


★きょうの歩数…17446歩


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